ホームズの生みの親「アーサー・コナン・ドイル」を徹底解説②

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本記事では、「シャーロック・ホームズ」シリーズを生み出し、推理小説好きでその名を知らぬものはいないと言っても過言ではない、「アーサー・コナン・ドイル」について解説していきます

この記事の①~④を読めば、「アーサー・コナン・ドイル」の全てが分かります

この記事は全部で4つあるうちの第二弾です

ドイルが作家として成功した頃から、ボーア戦争ゲリラ化後のドイルによるイギリス軍擁護運動までを詳しく解説していきます

ドイルの主な著作をはじめ、出生から「ホームズ」シリーズ第一作目発表までを解説した、前の記事についてはこちらからご覧いただけます

年表(28歳~44歳)

年表

西暦(年齢)

1889年2月(29歳) 『マイカ・クラーク』出版

1890年2月(30歳) 『四つの署名』出版 

1890年8月(31歳) ロベルト・コッホ発表の新結核治療法の不完全を『デイリー・テレグラフ』で批判

1890年11月(31歳) サウスシーの診療所を閉める

1891年1月(31歳) オーストリア・ウィーンへ移住し、眼科医の実習を受ける

1891年3月末(31歳) 眼科医実習を諦めロンドンへ帰国

1892年6月(33歳) 『シャーロック・ホームズの冒険』単行本化

1893年(34歳) 『亡命者』単行本化

1893年12月(34歳) 『シャーロック・ホームズの回想/思い出』単行本化

1894年(35歳) 「ジェラール准将」シリーズ執筆開始

1896年(37歳) 『ジェラール准将の功績』単行本化

1899年10月(40歳) 第二次ボーア戦争勃発

1900年3月(40歳) 医療奉仕団の医師として戦地へ赴く

1900年7月(41歳) 医療奉仕団の活動を終え帰国したのち『大ボーア戦争』執筆

1900年(41歳) 自由統一等候補として選挙に出馬するも落選

       『英米の融和(An Anglo-American Reunion) 』執筆

1902年3月(42歳) 『南アフリカ戦争 原因と行い』発表

1903年(43歳) 『ジェラールの冒険』単行本化

小説家としての成功

 「シャーロック・ホームズ」シリーズ第一作の長編『緋色の研究』出版までの間に、『ガス・アンド・ウォーター・ガゼット』誌からの依頼でドイツ語の『ガスパイプ漏れの検査』を英語訳しました。この仕事について後年「世人は『緋色の研究』が私の仕事の突破口だと思うかもしれないが、そうではない。自分から頼んだのではなく出版社から依頼された始めての仕事という意味でこの翻訳が私の突破口となった」と語っています

 1887年7月から1888年始めにかけて、17世紀後半のモンマスの反乱を描いた歴史小説『マイカ・クラーク』を執筆し、ロングマン社に買い取られたのちの1889年2月に出版します。同作品はかなり評判がよく、1年の間に3版も重版を重ねており、後年にはアーサー自身「この作品が自分の最初の出世作だった」と語っています。そして同年、アメリカ合衆国のJ.B.リピンコットからの依頼で「シャーロック・ホームズ」シリーズ第二作『四つの署名』を執筆し、1890年2月二英米で出版されました。この作品の評判も良かったようです

 『四つの署名』執筆後は、執筆と歴史調査に2年かけた歴史小説で14世紀を舞台とした『ホワイト・カンパニー』の執筆に戻ります。『マイカ・クラーク』と『四つの署名』の評判が良かったので、『ホワイト・カンパニー』はコーンヒル社に雑誌掲載で200ポンド、単行本で350ポンドという高い報酬で買ってもらうことが出来ました。単行本は全3巻で出版されましたが、非常によく売れたのでアーサーの小説家としての名声を押し上げることとなります。同作品はのちに学校の歴史教育の教材にも使用され、ドイルも「長く読み伝えられ、イギリスの伝統が栄光に輝いてほしい」という感想を述べています

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執筆活動を本業へ

 1890年8月、ドイツ・ベルリンで開催された国際医学会でロベルト・コッホが結核の新治療法の発見を発表したことが気になったドイルは、直ちにベルリンに向かうもコッホの講演会チケットが入手できませんでした。諦めきれずにコッホの家を訪れるもコッホに会うことは出来ませんでした。しかしコッホの講演会のメモを入手し、メモを読んだドイルは『デイリー・テレグラフ』誌にコッホの研究が不完全で結果が出ていないとの批判を投稿しました。後にコッホの研究の不十分さが判明したので、真っ先にそれを指摘したことは誇らしい気分であったといいます

 ドイルはこのベルリン滞在時に突然眼科医になることを思い立ち、1890年11月にサウスシーに戻って診療所を閉めると、1891年には妻を連れてオーストリア・ウィーンへ移住します。そして眼科医の実習を受けますが、ドイルのドイツ語能力は専門的な授業を受けられるレベルではありませんでした。すぐに授業についていけなくなったドイルは、ウィーンでの眼科医資格取得を断念します。6ヶ月の予定だった実習を2ヶ月で切り上げて1891年3月末にロンドンに帰国し、モンタギュー・プレイス23番地の邸宅で暮らしながら、アッパー・ウィンポール街で無資格の眼科医を開始します。しかしロンドンには有資格の眼科医が多かったため、わざわざ無資格の眼科医に見てもらおうという患者は全く来ず、暇な時間を使って小説の執筆活動に励みました。眼科診療所は結局閉鎖し、サウス・ノーウッド郊外テニスン・ロード12番地に移住、仕事を執筆業一本に絞るきっかけとなりました

代表作となる「シャーロック・ホームズ」シリーズが大ヒット

 この頃、ドイルは同じ人物を主人公とした短編小説を読み切り連載で書こうと考えていました。その主人公として選ばれたのが「シャーロック・ホームズ」です。ホームズをシリーズ化することにした理由としては、すでに『緋色の研究』と『四つの署名』の2作品を出版しており、シリーズ化が一番容易と判断したことがありました。こうして執筆された「シャーロック・ホームズ」短編小説6編は、1891年1月に発刊されたばかりの『ストランド・マガジン』に1作35ポンドで買い取られ、同誌に1891年7月号から順次掲載されました。この連載は初回から話題となり、「シャーロック・ホームズ」シリーズは人気作品として『ストランド・マガジン』の販売数を押し上げました。この後は、好評にこたえてさらに6編の「シャーロック・ホームズ」短編小説を執筆し、1892年1月号から順次掲載されました。この連載終了後の1892年6月には、これまで発表された12篇の短編小説が『シャーロック・ホームズの冒険』として単行本化されました

 ドイルのもとには「シャーロック・ホームズ」シリーズの読者から手紙が届くようになりますが、その大半はホームズ宛でした。ホームズ宛の手紙には、ドイルが「ドクター・ジョン・ワトスン」名義で「残念ながらホームズさんは留守でして」と返信していたとのことです。また、サインを求められることも多くなりますが、それもやはり「シャーロック・ホームズ」のサインであることが多かったようです

 この頃ドイルは、『ブックマン』誌において「シャーロック・ホームズについて全国からたくさんのお便りをもらうようになりました。ある時は学生から、ある時は熱心な読者の巡回セールスマンの方から。時には弁護士の方から法律の誤りを指摘されることもあります。シャーロックの若いころのことを知りたいといった手紙も多いです」と語っています

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ドイルは歴史小説家として名前を残したかった

 しかしドイル自身は歴史小説を自身の本分ととらえており、「ホームズ」シリーズが著名になりすぎるとホームズを倦厭するようになります。最初のホームズの連載が終わると、「シャーロック・ホームズ」シリーズを離れ、17世紀フランスのカルヴァン派への弾圧と彼らのアメリカ亡命を描いた歴史小説『亡命者』の執筆を行いました。1892年2月までに同作品を完成させ、『ストランド・マガジン』とアメリカ合衆国の『ハーパーズ・ニューマンリース』で発表したあと、1893年には単行本化されました。同作品はそれなりに売れはしたものの、「シャーロック・ホームズ」シリーズの人気には及びませんでした

 『ストランド・マガジン』は歴史小説よりも「シャーロック・ホームズ」シリーズの続編を書いてほしいとドイルに要請し続けていましたが、ドイルは「1,000ポンドの報酬を出すならもう12編のホームズ短編を書いてもいい」という条件を出しました。ドイルは破格の報酬を条件に出すことで『ストランド・マガジン』に諦めてもらおうとしたようですが、同誌がこの条件を呑んだため短編を書くしかなくなりました

 こうして再び書かれた12編のホームズ短編小説は『ストランド・マガジン』1892年12月号から発表され、のちに『シャーロック・ホームズの回想』として単行本化されました。しかしこの連載の最後である1893年12月号『最後の事件』にてホームズをライヘンバッハの滝に落として死亡させたことにしたので、物議をかもしました。ドイルはこの連載が始まる前に母に宛てた手紙で「私はホームズを最後に殺すことでこの仕事を打ち切ることを考えています。彼のために私は他のもっと素晴らしいことを考える余裕がなくなっているからです」と漏らしていました

 ドイルはその後、1894年からナポレオン戦争時代を舞台とした『ジェラール准将』シリーズの執筆を開始しました。最初の8編は1896年に『ジェラール准将の功績』として単行本化され、続く8編は1903年に『ジェラールの冒険』として単行本化されています。同シリーズもかなりの人気作品となりましたが、世間では依然として「シャーロック・ホームズ」シリーズの再開とホームズの復活を願う声が強くありました

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ボーア戦争の勃発

戦地での医療奉仕活動

 南アフリカに帝国主義的野心を抱いていたソールズベリー公爵内閣植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンは、南アフリカのボーア人国家トランスヴァール共和国を追い詰め、1899年10月に同国がイギリスに宣戦布告してくるように持ち込みます。しかしボーア人は住民として地の利を活かして戦い、侵攻してきたイギリス軍に大きな損害を与えていました。戦死者の増大を前にイギリス本土ではインド人など植民地人を代わりに戦わせ、イギリス人の人的損害を減らすべきということが盛んに主張されるようになりました

 ドイルは『タイムズ』で「植民地人の兵士を戦地に送るべきという意見が各方面で強まっているようだが、イギリス人が1人も戦地に行かないで植民地の人間に穴埋めさせるのは名誉にかかわるのではないか」と主張すると、自身もイギリス軍に従軍する決意を固めました。ドイルの母は従軍に反対していましたが、母への手紙でドイルは「私はあなたから愛国心を学びました。ですから私を責めないでください。兵士としてどの程度役に立てるかは分からないですが、自分は模範を示す人間として国に奉仕できると思います。思うに私はイギリスで誰よりも若者たち、特にスポーツを愛する若者に強い影響を与えることができると思います。だから若者の手本になることが重要なのです」と説得しています

 しかしながらドイルはすでに40歳過ぎで、陸軍の兵役検査に落ちてしまったためにやむをえず従軍は諦めました。代わりに、50人の医療奉仕団を戦地に派遣するという友人ジョン・ラングマンの計画に医師の1人として参加し、戦地に赴きました。医療奉仕団は1900年3月にイギリス領ケープ植民地首都ケープランドに到着し、ロバーツ卿率いるイギリス軍の進軍路を辿って負傷者・発病者の治療にあたりました。ドイル自身も休むことなく献身的に働きました

 1900年6月、イギリス軍はトランスヴァール首都プレトリアを陥落させます。ドイルは占領下のプレトリアでイギリス軍司令官ロバーツ卿と会見し、医療奉仕団の活躍を報告しています。ボーア戦争は実際はゲリラ戦争と化してさらに2年近く続きますが、この時はプレトリア陥落で戦争の大勢は決したかのように思われました。ドイルはこの戦争についての総括の執筆を行うため、加えて近々行われると見られていた総選挙に出馬するべく、7月に帰国の途につきました。帰国後は直ちに『大ボーア戦争』を執筆しますが、この著作はプレトリア陥落でボーア戦争は集結したという前提で書かれたものであったために、この後ボーア戦争が泥沼のゲリラ戦争と化していく中では、時流に合わないものになってしまいました

出馬するも落選

 ドイルは、ボーア戦争が起こる以前から政界進出への意欲をマスコミ紙面で表明していました。そのため1900年10月の解散総選挙を前に、与党である保守党・自由統一党も、野党である自由党も著名な作家ドイルを自党の候補に擁立しようと誘いをかけ、ドイルは自由統一党からの出馬を決めました。同党はジョゼフ・チェンバレンやデヴォンシャー公爵らアイルランド自治に反対する議員が、自由党から離党して作った党であり、この頃には保守党と連立して与党を形成し、戦争支持を表明していました。

 同選挙区の自由党候補は出版業者ジョージ・マッケンジー・ブラウンでしたが、ドイルは自身と彼の間に社会問題や地元選挙区の関心事項について相違はないことを強調することで、争点をボーア戦争の是非のみに持ち込みます。その上で「南アフリカの明るい未来の見通し」や「大きな流れの真ん中で馬を変えることの危険性」を説き、与党支持を訴えました。しかし選挙日前日に、福音派信者がドイルのことを「教皇派共謀者」「イエズス会密使」「プロテスタント信仰破壊者」と誹謗中傷するプラカードを持って行進します。これによってドイルは、有権者から狂信的カトリックのように誤解され、この後の選挙の流れが不利になったといいます

 選挙の結果はブラウン3,028票に対してドイル2,459票に留まり、落選ではあったものの、前回選挙と比べて自由党候補の票を1,500票も減じ、党は一定の成果があったと評価したようです。総選挙全体の結果としては与党が圧勝しました

ドイルの政治思想

 ドイルは当時の大多数のイギリス人同様熱狂的な帝国主義者であり、「大英帝国の拡大が道徳的善を推進する」と信じて疑いませんでした。そのため1898年のイギリス軍によるスーダン侵攻の際は『コロスコの悲劇』を執筆し、その中でマフディーの反乱を起こしてイギリス支配を脱却したマフディー教徒たちを「狂信的な専制者」と批判しています。1900年から1902年にかけてのボーア戦争の際も、イギリス軍の様々な残虐行為の「弁護士」の役割を全力で果たし、その功績で国王エドワード7世よりナイトに叙されています。前述した選挙についても、自由統一党の候補として出馬したのは、同党が最も強硬に帝国主義戦争を推進していたからでした

 ドイルの大英帝国観は彼の歴史小説の中に見える中世騎士賛美とも相互補完しており、騎士道の強者への賛美はそのまま世界最強国大英帝国への信奉、騎士道の弱者への思いやりはそのまま大英帝国の寛大な植民地政策に反映していると考えていました。一方ベルギー王レオポルド2世による残虐な今後植民地支配には批判的で、その犯罪的統治を糾弾する『コンゴの犯罪(The Crime of the Congo) 』を執筆しています

 女性観も中世騎士道に根ざしており、男は強くあり、女性を保護しなければならないと考えていました。そのためドイルは無意味な女性差別を廃することには賛成していましたが、女性が男性の分野に進出することには反対していました。例えば、離婚事由を巡って男女差別を規定していた離婚法の改正運動には積極的に協力しましたが、政治という男の世界への女性の進出を促す婦人参政権には強く反対しました。ドイルは婦人参政権について「女性に選挙権を持たせても何の益もない」「女性が政治運動をすること自体がおぞましく、女性らしくない」と論じました。そのためしばしば婦人参政権論者の憎悪の対象となり、1909年には自宅の郵便受けに硫酸を流し込まれたことがありました。1914年に訪米した際にも、あるアメリカ合衆国の新聞に「シャーロック来る。”狂気の女たち”のリンチに期待」という見出しをつけられました

 ドイルは反共産主義者であり、第一次世界大戦中に起きたロシアでの共産革命を強く嫌悪しました。ロシア革命については「まるで一人の強健な人物(帝政ロシア)が、突然目の前でドロドロの腐敗物(ソビエト連邦)と化してしまったかのようだ」「やがていくばくもなく共産主義政権は崩壊し、再び強固で健全なロシア人が蘇るだろう」という感想を漏らしています。ドイルの後年の心霊主義への傾倒は共産主義への反発もあったようです。また、イギリスの労働党の緩やかな社会主義も非英国的と見て嫌っていました

 ドイルは徹底した国粋主義者でしたが、アメリカ合衆国には好感をもっており、「アングロ・サクソン人が世界をリードすべき」「世界の未来は英米両国の結合にかかっている」と語っていました。1900年には『英米の融和(An Anglo-American Reunion) 』という小論文を執筆し、この2国の結合が善意で実現できなければ、やがてロシアからの威嚇の防衛手段として無理やりその結合を成立させられることとなるであろうと予言しました

イギリス軍擁護運動

 ボーア戦争がゲリラと化し、1900年9月にはゲリラが攻撃してきた地点から16キロ四方の村は焼き払って良いとの方針も定められ、民家がゲリラの活動拠点となっていると見たイギリス軍は焦土作戦を実施します。焦土作戦で焼け出されたボーア人の多くは強制収容所に送られますが、そこの環境は劣悪で2万人以上の人々が命を落としました。すると国内外でイギリス軍の残虐な行為への批判が高まります。しかし大英帝国の拡大が世界に道徳と秩序をもたらすと信じるドイルは、こうした批判に徹底的に反論しました。1902年3月、イギリス軍の小冊子『南アフリカ戦争 原因と行い』を発表します。ドイルはこの中で、イギリス軍の焦土作戦について「イギリス軍が民間人の家を焼くのは、そこがゲリラの起点となった場合のみ」「責任は最初にゲリラ戦法を行った側(ボーア人)にある」と擁護します。強制収容所については「焼け出された婦女子を保護するのは文明国イギリスの義務である。収容所内では食糧もしっかり出されている。それにもかかわらず収容所の死亡率が高いのは病気のせいだが、イギリス軍内でも病死者が続出しており、差別的な取り扱いではない」と擁護しました。また、イギリス軍人によるボーア人婦女子強姦については「いかなる戦争でも女性は既婚・未婚問わず憎悪にさらされる。避けられないことだ」と批判を一蹴しました

 この小冊子は政府や戦争支持派から熱烈に支持され、発売から6週間で30万部を突破しました。ドイルは自分のポケットマネーや募金で集めた資金を元手にして、この小冊子をできる限り多くの言語に翻訳して各国に配布し、イギリスの国際的な汚名を雪ぐことにも務めました。この活動が政府に評価され、1902年10月24日に国王エドワード7世から「Knight Bachelor」に叙されたので、「サー」の称号を得ました。同時に名誉職のサリー州副統監にも任命されました

「アーサー・コナン・ドイル」徹底解説の第二弾はここまでです。第三弾では、「ホームズ」がドイルによって復活を果たす時期から、有名な「タイタニック号沈没事件」発生の時期までのドイルを詳しく解説していきます

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