本記事では、「シャーロック・ホームズ」シリーズを生み出し、推理小説好きでその名を知らぬものはいないと言っても過言ではない、「アーサー・コナン・ドイル」について解説していきます
この記事の①~④を読めば、「アーサー・コナン・ドイル」の全てが分かります
この記事は全部で4つあるうちの第一弾です
「コナン・ドイル」の主な著作をはじめ、ドイルの出生から「ホームズ」シリーズの一作品目発表頃までを詳しく解説していきます
シャーロック・ホームズを生み出したといえば、この人
「アーサー・コナン・ドイル」です

本名はもっと長くて「サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle) 」と言います
- 誕生ー死没:1859年5月22日ー1930年7月7日
- 誕生地:スコットランド(イギリス北部)・エディンバラ
- 死没地:イングランド(イギリス東南部)・クロウバラ
- 職業:作家、医師、政治活動家
- 最終学歴:エディンバラ大学医学部
- ジャンル:推理小説、歴史小説、SF小説、政治・社会問題、心霊主義
- 代表作:シャーロック・ホームズシリーズ、チャレンジャー教授シリーズ、ジェラール教授シリーズ、『ホワイトカンパニー』
- 主な受賞歴:ナイト
- 配偶者:ルイーズ(1885年‐1906年)、ジーン(1907年‐1930年)
- 身長:6フィート(183cm)
- 体重:17ストーン(107.9kg)
主な著作
「シャーロック・ホームズ」シリーズ
- 緋色の研究(1887年、長編)
- 四つの署名(1890年、長編)
- シャーロック・ホームズの冒険(1892年、短編集)
- シャーロック・ホームズの思い出(1894年、短編集)
- バスカヴィル家の犬(1901年、長編)
- シャーロック・ホームズの帰還(1905年、短編集)
- 恐怖の谷(1914年、長編)
- シャーロック・ホームズ最後の挨拶(1917年、短編集)
- シャーロック・ホームズの事件簿(1927年、短編集)
「チャレンジャー教授」シリーズ
- 失われた世界(1912年)
- 毒ガス帯(1913年)
- 霧の国(1926年)
「ジェラール准将」シリーズ
- ジェラール准将の功績/The Exploits of Brigadier Gerard (1896年、短編集)
- ジェラールの冒険/The Adventures of Gerard (1903年、短編集)
ミステリ(ホームズ作品以外)作品
- ササッサ谷の怪(ドイル最初の発表作品)
- 消えた臨急/The Lost Special (急行列車の紛失)
- 時計だらけの男(女装好きの男、作中にホームズらしき探偵の描写あり)
- ガスタ山の医師
恐怖小説
- 大空の恐怖(草創期の飛行士が大空で出会った怪物との死闘を、手記の形で描く)
海洋小説
- 樽工場の怪(たる工場の怪)
- クルンバーの謎/The Mystery of Cloomber
スポーツ小説
- クロックスリーの王者
- バリモア公の失脚(バリモア卿失脚の真相)
- ファルコンブリッジ公
- ブローカスの暴れん坊
- 旅団長の罪
延原謙が『ドイル傑作集』全8巻(1957年-1961年)としてジャンル別に編纂したアンソロジーが新潮文庫から出ていましたが、現在は絶版となっています。また、東京創元社からホームズ外典を含めた短編集が文庫で出ています
歴史小説
- マイカ・クラーク(1889年)
- ホワイト・カンパニー(1891年)
- 大いなる影(1892年)
- 亡命者(1893年)
- ロドニー・ストーン(1896年)
- ベルナック伯父/Uncle Bernac(1897年)
- サー・ナイジェル(1906年)
その他の小説
- J・ハバクック・ジェフソンの遺書(1883年)
- ガードルストーン会社(1890年)
- 危険!(1914年)
- マラコット深海(1929年)
ノンフィクション
- 大ボーア戦争(1900年)
- 南アフリカ戦争 原因と行い/The War in South Africa – Its Cause and Conduct (1902年)
- 魔法の扉をくぐれば/Through the Magic Door (1907年)
- コンゴの犯罪/The Crime of the Congo (1909年)
- オスカー・スレイター事件/The Case of Oscar Slater (1912年)
- フランス及びフランダースにおける戦闘/The British Campaign in France and Flanders (1916年‐1920年)
- 新たなる啓示/The New Revelation (1918年)
- 妖精の到来/The Coming of the Fairies (1921年)
- 心霊主義の歴史/The History of Spiritualism (1926年)
合作
- 看護婦ヒルダ・ウェイド/A Woman with Great Tenacity of Purpose (ヒルダ・ウェイドー目的のためには決してくじけない女性の物語)(1900年)
グラント・アレンが『ストランド・マガジン』に連載した女探偵ものです。作者アレンの急逝により、友人だったドイルによって書き継がれました。没後、出版の単行本は「グラント・アレン&アーサー・コナン・ドイル」名義で出されました
年表(出生~28歳)
西暦(年齢)
1859年(0歳) イギリス・エディンバラ、ピカ-ディ・プレイス11番地に生まれる
1868年(9歳) イングランド・ランカシャーのイエズス会系寄宿舎・ホダー学院へ入学
1870年(11歳) ホダー学院の上級学校ストーニーハースト・カレッジへ進学
1875年(16歳) ドイツ語の勉強を兼ねオーストリア・フェルトキルヒのイエズス会系の学校へ留学
1876年(17歳) エジンバラ大学医学部へ進学
1879年(20歳) 短編小説『ササッサ谷の秘密』執筆
1880年(21歳) 7ヶ月に渡る捕鯨船医として乗船
1881年(22歳) 医学士と外科修士の学位を取得しエジンバラ大学を卒業
1881年10月(22歳) アフリカ汽船会社の船医として就職
1882年(23歳) ポーツマス郊外サウスシーで診療所を個人開業。患者を待つ間、副業として執筆活動開始
1885年(26歳) なくなった患者の姉であるルイーズ・ホーキンズと最初の結婚をする
1886年(27歳) 「シャーロック・ホームズ」シリーズ第一作『緋色の研究』執筆
1887年(28歳) 『緋色の研究』が『ビートンのクリスマス年鑑』に掲載
出生・出自について
1859年5月22日、スコットランドのエディンバラ、ピカ-ディ・プレイス11番地に、労務局測量士補チャールズ・ドイルと、妻メアリー(旧姓:フォーリー)の長男として生まれました。チャールズ、メアリー夫妻の子どもは全部で9人いましたが、無事育ったのは内7人でした。アーサーと姉のアネットは、大伯父にあたる美術批評家マイケル・コナンから「コナン」の姓をもらい、「コナン・ドイル」という複合姓となります。
父方のドイル家は14世紀にフランスからアイルランドへ移住したノルマン系で、敬虔なカトリック一族であったため迫害を受けることが多くありました。そんなドイル家が世間の注目を集めるようになったのは、アーサーの祖父であるジョン・ドイルがダブリンからロンドンに出てきて、” H.B. “の筆名で著名な風刺画家となってからでした。ジョンの長男・ジェームズは画家、次男・リチャードはイラストレーター、三男・ヘンリーはアイルランド国立美術館官庁とアーサーの祖父や叔父3人は成功者でした。しかしアーサーの父、ジョンの五男・チャールズは一介の測量技師補から出世せず、後にアルコール依存症になりました。1876年には測量技師補の仕事も失い、療養所(のちに精神病院)へ送られたため、アーサーの幼少期・青年期の生活は苦しかったようです
母方のフォーリー家もフランスからアイルランドへ移住したカトリックであり、系図を遡るとフランスから渡米した英国王室・プランタジネット朝につながるということで、アーサーの母はそのことを常に誇りにしていたそうです
学生時代について
裕福な叔父たちの支援で、1868年にイングランド・ランカシャーにあるイエズス会系の寄宿学校・ホダー学院に入学します。1870年にはその上級学校であるストーニーハースト・カレッジに進学し、5年間学びます。スポーツ万能だったドイルは同校のクリケット部主将を努めますが、後年には同校の体罰の激しさやイエズス会教師の「救いようのない頑迷さ」を批判しています。1875年にドイツ語の勉強を兼ねてオーストリア・フェルトキルヒのイエズス会系の学校に1年間留学しています
留学を終えオーストリアから帰国した頃、母メアリーは少しでも生活費を楽にするため、ある医師を間借り人として置いていました。この医師の影響を受けてドイルは医師を志すようになり、1876年にエジンバラ大学医学部に進学、5年にわたって在学します。この間を振り返って「長く退屈な勉強の毎日。植物学、科学、解剖学、生理学、その他、大半は医療という技術には大して繋がりのない必修科目の履修」という状況であったと語っています。しかし同大学で知遇を得たジョセフ・ベル教授からは大きな影響を受けます。ベル教授はちょっとした特徴から患者の状況や経歴を言い当てる人物であり、ドイルは彼をモデルに「シャーロック・ホームズ」の人物像を作り上げたといいます。また、解剖学のウィリアム・ラザフォード教授の豪快さは、チャレンジャー教授の人物像のモデルになったと言われています
ドイルは大学在学中にダーウィンの進化論に共感を寄せたため、徐々にカトリック信仰からは離れたようです。また、通学路に古本屋があり、古本もよく読むようになります。タキトゥスやホメーロスなどの古典、クラレンドン伯爵『イングランド反乱史』、スウィフト『桶物語』、アラン=ルネ・ルサージュ『ジル・ブラース物語』、エッセイで言えば、サー・ウィリアム・テンプル準男爵、オリバー・ウェンデル・ホームズ、トマス・マーコリー、そしてエドガー・アラン・ポーの小説などに強い影響を受けました
得意なスポーツには積極的に参加しました。相手を見つければすぐにボクシングの試合をし、ラグビー部ではフォワードを務めました
当時、ドイルの姉2人はポルトガルで働いて実家に仕送りをしていました。ドイルも長男として仕送りをしないことは肩身が狭かったこともあり、時たま医師のもとで助手をしたり、1880年には7ヶ月に渡る捕鯨船医として乗船したりしました
成績は並ではありましたが、1881年に医学士と外科修士の学位を取得して卒業します
スポーツマンのドイル
ドイルは生来体格が良かったこともあってスポーツが好きでした。とりわけクリケットが得意で、メアリルボーン・クリケット・クラブの一員として、投手でも打手でも活躍しました。ウィリアム・ギルバート・グレースからアウトを取ったこともあったようです
サッカーでも活躍し、40代までプレイし続け、ゴルフやビリヤードも嗜んでいました。また、アマチュアのボクサーでもあり、かなり強かったようです。ドイル自身はボクシングを「武器を使わないもっともフェアで男らしいスポーツ」と絶賛しています
ドイルは自身のスポーツの腕前については「どれも専門的にやったわけではないから、何をやっても二流止まりだった」と謙虚に語っています
医師として働き始める
卒業後の1881年10月には、アフリカ汽船会社の船医として就職します。10月末にリヴァプールから出航したアフリカ行きの汽船マユンバ号に乗船するも、客が次々とマラリアに罹患します。その治療に悪戦苦闘するなか、自身もマラリアに罹患して一時は生死の境を彷徨います。気候も暑くてたまらなかったこともあり、1882年1月にリヴァプールへ戻った頃にはこれ以上アフリカ行きの汽船の船医を続ける気にはなれなくなっており、退職します
この後ロンドンの伯父たちに会って支援を受けようとしたものの、経験なカトリック信者である伯父たちは、カトリックへの信仰心を失ったドイルを助けてはくれませんでした
1882年5月には、エジンバラ大学の同級生であるジョージ・バッドに誘われ、プリマスのバッドの診療所の共同経営者になります。バッドの診察は型破りと評判で客も多かったものの、ドイルが診察を分担するようになってから客が減ったため、2ヶ月も経たないうちに二人の関係は破局します。バッドが「ドイルの看板が外にあるから客が減るのだ」と批難したことを機に、バッドと袂を分かつことを決意しました
1882年6月末からはポーツマス郊外サウスシーで診療所を個人開業します。8年にわたって続けましたが、サウスシーはすでに医師が多くいる地域であったため、ドイルの年収が300ポンドを超えた年はありませんでした。得意のスポーツで地域社会にはすぐに溶け込み、ボウリング大会で優勝したりクリケット・クラブ主将を務めたり、サッカー・クラブ立ち上げにも参加しました
1885年、病死した患者の姉であるルイーズ・ホーキンズと最初の結婚をしました
副業としての執筆活動開始
患者を待つ時間を利用して副業として小説を執筆し、雑誌社に投稿するようになります。1882年には『わがとも、殺人者(My Friend the Murderer) 』が『ロンドン・ソサエティ』に10ポンドで買ってもらえました。同年末には捕鯨船での体験を基にした『北極星号の船長(The Captain of the Pole-Ster) 』が『テンプル・バー』に10ギニーで買ってもらえました。さらに1883年には、メアリー・セレストの事件に触発されて執筆した『J・ハバクック・ジェフソンの遺書』が『コーンヒル・マガジン』に29ギニーで買ってもらえ、ドイル初期の執筆活動最大の成功となりました。ただし買い取ってもらえることは稀で、作品の大半は返却されていました
短編小説は小金稼ぎにはなりましたが、作者名が掲載されないためその場限りとなることが難点でした。アーサーの自伝によると、1885年の結婚後にこのまま短編小説を書き続けても進歩がないと思うようになり、単行本になるくらいの長編小説を書こうと思い立ったということです。初めは『ガードルストーン会社』という長編小説を書いたものの、出版してくれる出版社がなかなか見つからず刊行は1890年となりました。
この後1886年3月から4月には、「シャーロック・ホームズ」シリーズ第一作となる長編小説『緋色の研究』を執筆し、これもなかなか出版社が見つからなかったものの、同年10月末にウォード・ロック社に25ポンドという短編並みの安値で買い取ってもらいます。この作品は1887年11月出版『ビートンのクリスマス年鑑』に掲載され、翌年には単行本化もされました。
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「アーサー・コナン・ドイル」徹底解説の第一弾はここまでです。第二弾では、ドイルが作家として成功した頃から、ボーア戦争ゲリラ化後のドイルによるイギリス軍擁護運動までを、詳しく解説していきます
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